欲求の向こうにあるメッセージ

エッセイ

とある日突然、「○○がしたい!」「○○に行きたい!!」と急に思い立つことがある。頻繁にある。

コンクリートジャングルの中で生活していると、疲れているのか何が食べたいのか良く分からない自分にとっては、自分癒しに気付ける絶好のチャンスなのだ。

電車に乗っている時でも何かに集中している時でも雨が降って濡れないように傘をさしている時でも、、その欲求がいつ頭に降って来るのか分からない。

その”自分へのお願い”は、1分後に忘れてしまう時もあるし、度々思い返してはスマホで調べて「本当にそれを欲しているのか?」と何度も自問自答して自分を試している。でもそんな時間は至福。変な言い方するととっっても至福

ちなみに「疲れているかも、、」と思った時は既に手遅れ気味の疲労困憊状態になっているから過剰に寝たり温泉行ったりする。でも1日で回復する訳がないのだけど。

そんな時は大体自分に「何が食べたい?」とメッセージ送ったりして一人二役の世界が繰り広げられ、側から見たら終始無表情(なはず)。そんな危ないゾーンに洗脳されたように私は突然旅に出る。免許がないから飛行機に電車、バスに徒歩。とにかく根性で何が何でも目的地へ行く。

数年間を振り返ると、その欲求は旅ばっかだった。しかも自然の場所が多い。何をするって、現地に行って散歩したり神社に行ったり自然の中を歩いたり。それだけ。

とにかく私はとにかく無言でいられる場所を求めているのかもしれない。

そんな私が潜在的に、「本当は何が欲しくて旅をしているのだろう?」の答えの一部分に気づくことがあった。

旅を終えた帰り道、何も考えずにスマホでとにかく撮った写真を何度も見返していた。その中でピントが手前の葉っぱに設定された、この青い海の写真があったのだ。

「なんか面白いな〜」と思いながら最初は見過ごしていたのだけど(全部で100枚くらいあるし)、「SNSにアップするならどれかな〜」と何となく見返していたらこの写真を選んでいた。

あれっ!

この手前の葉っぱ、虫食われてる。可愛い。笑

しかも上の方の穴、デカい。。食いしん坊さんがいたのね。

この懐かしい感じに幼少の頃を思い出す。

「虫を殺してはいけないよ」「よその家の葉っぱを取ったら神様からバチが当たるよ」と母親からきつく言われ素直にうなづいていた頃。

どうしても欲しくて近所の庭の竹の葉っぱをむしっちゃって後から罪悪感でいっぱいになり、怪訝そうに青い空を見上げて「神様、ごめんなさい。。」を謝ったっけ。

そんな記憶を思い出しながら安心感に包まれている。

自分の心を癒したり心を大事にするのはこういう事かもしれないと思ったのだ。つまり、外側ではなく自分の内側に入り込むこと。私は日常的に自分の心の扱い方を知らなかったから旅に出ていたのだと気付いたのだ。

潜在的な欲求に気付いていて良かったと、せめてもの救われた気持ち。

海が見たくて時間もお金もかけた。心は大満足した。

それで十分と思っていたけれど、後から冷静に見ていた写真から気付くことができた。

見たいものの向こうに何かあるはず、、!と外側の更に向こうばかり見ようと頭ばかり働かせていても、それなりの都合の良い言葉しか組み立てられない。海の果てばかり見ていても「いつか答えは見つかる」と祈るだけ。

頭も心も、ふと空っぽになった時にハッとなる。この状態が等身大の自分でいることなのでは・・?

それが私に向けたメッセージならばこの先も欲求を取り逃してはいけないと、お一人様大好きな私への最大の甘やかしとまた旅に行ける言い訳なる。無言のワクワクが止まらない。

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